第5回「聖堂と神父による祝福」【神の法:第1部】

第5回目はセラフィム・スボロツコィ『神の法』の第1部より「聖堂と神父による祝福」ついて翻訳していきます。

第1部目次

セラフィム・スボロツコィ『神の法』の第1部の目次は以下の通りの予定です。

 

第1回:「神さまについて〜三位一体と神の性質〜」

第2回:「祈りと罪」

第3回:「十字をきる〜十字の切り方やお辞儀の意味〜」

第4回:「いつどこでお祈りすればいいの?」

第5回:「聖堂と神父による祝福」

第6回:「イコンについて」

第7回:「天使や聖人について」

 

第1回は下のリンクよりご覧になれます。

troitsa.hateblo.jp

 

聖堂について

聖堂(教会)は「神様の家」と呼ばれるように、神様に捧げられた特別な建造物であり、教会奉仕が行われる場です。聖堂は、聖職者(主教や司祭)による教会奉仕を通して生まれる、独特な神様の恵みで満たされています。

聖堂と普通の建造物との違いといえば、まず、聖堂の上部に天国を表す「クーポル(ドーム、玉ねぎ屋根)」が聳え立っています。クーポルのてっぺんには教会の頂点であるイイスス・ハリストスの栄光を表す十字架が立っています。聖堂への入り口上部には、普通、鐘堂があり、鐘が吊り下げられた塔が隣接しています。教会の鐘の音は、教会奉仕などの祈祷へと信者たちを呼び集めるため、また、奉仕中でも特に重要性の高い箇所を伝えるために鳴らされます。

外の聖堂の入り口前には階段が敷かれ、ちょっとしたスペースやポーチ(玄関口)があります。内部は以下のような3つの空間で成り立っています。

1.拝廊

2.聖堂本体や中央部分(信者が祈祷の際立っている場所)

3.至聖所

至聖所では、聖職者たちによる教会奉仕が執り行われます。そして、この教会内で最も重要な場所とされる至聖所に安置されているのが、聖体機密が執り行われる宝座です。

至聖所と教会の中央部分とはイコノスタスで区切られています。イコノスタスとは、いくつものイコンが列をなして組み込まれた壁で、扉が3対ついています。中央の扉は王門と呼ばれ、栄光ある王、主イイスス・ハリストスご自身が、目に見えない形ですがご聖体となって通る門です。このため、王門は聖職者を除きいかなる人も通ることが許されません。

教会奉仕について

特定の儀式や規律により、聖職者を率いて取り行われる祈祷の誦経しょうけい)((((ここに脚注を書きます))))や聖歌のことを教会奉仕といいます。*1

最も大事な教会祈祷はリトゥルギーヤまたは聖体礼儀です(お昼までに終わる儀式)。聖体礼儀では、救世主の地上での歩みが思い返され、最後の晩餐でイイスス自身が行った聖体機密が行われます。

聖体機密は神様への感謝によって、パンとワインが聖とせられ、パンとワインの見た目のまま、ハリストスの尊体、尊血となります。私たちは、このパンとワインを通してハリストスの尊体、尊血を頂くことで、天国に入り、永遠の命を得るのです。

教会での振る舞い

聖堂は大いなる聖なる場所で、特別な慈悲によって神様ご自身がいらっしゃる場所です。(目には見えませんが!)

聖堂には祈りとともに、静かに、畏敬の念を持って入りましょう。

また、祈祷の間は以下の行為は控えましょう。

・会話したり、ふざけること

・至聖所に背を向けること

・一箇所に立たず、うろうろと位置を変えること

・祈祷が終わる前に、途中で聖堂を出ること

体調不良の場合のみ、座って休むことが許されます。

ご聖体を頂くときは、落ち着いて急がず、両手を十字に組みましょう。ご聖体を頂いたら、盃の下の方に接吻して、立ち去ります。この時、聖体の入った器に誤ってぶつかってしまうのを避けるため、十字は切らないでおきましょう。

 

神父による祝福

聖職者、つまり祈祷を執り行う特別な人たちのことを神父と呼びます。神父の中には、主教などの高位聖職者や司祭がいます。このような人たちが、私たちに向かって切る十字を「祝福」といいます。

聖職者が祝福を与えるときは、イイスス・ハリストスの頭文字(Ис.Хс.)を表すように指を重ねます。

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つまり、イイスス・ハリストス、主ご自身が、聖職者を介して祝福していることを意味します。そのため、聖職者が祝福を与えるときは、私たちは敬意を持ってそれを受ける必要があります。

例えば、祈祷の中で「衆人に平安」などの言葉*2を耳にしたら、十字を切らずにお辞儀をしましょう。もし、祈祷中ではなく、個別に主教や司祭から祝福を受けるときは、手のひらを上にして、右手を上にクロスするように重ねます。祝福を受けたら、祝福を下さった聖職者の手に、見えないハリストスのお手があると想像しながら接吻します。*3

 

(翻訳終わり)

 

気づいたら、復活祭まで残り1週間の受難週間に入っていました。更新が遅くなってしまい申し訳ないです。ここ最近は、別の翻訳に夢中で、こちらが疎かになっていました。第1部の項も残り2つ。更新はいつになるかわかりませんが、復活祭を迎える前に、翻訳作業は終えられるよう頑張ります。

さて、今回は「祝福」というテーマがありました。私が初めて「祝福」という言葉を聞いたのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだときで、確か母親がリーザという少女に神父から祝福を受けるよう促すシーンだったと思います(記憶が曖昧ですが)。このときは、「祝福」という行為がまるで何なのか分からなかったので、きっとめでたい事なんだろな程度にしか思いませんでした。ロシアで暮らし、教会に通うようになると、日曜日の祈祷の終わりにずらっと信者たちが列をなして並び、至聖所から出てくる教会で最上位の神父(主教)に祝福を求める姿を目の当たりにするようになりました。また、修道院の敷地内で、歩いている神父に信者が駆け寄って、両手を合わせて祝福を求める姿などを見かけたりもしました。そういう私は、なかなか勇気が出ず、自分から話しかけて祝福を求めたりすることはできませんでしたし、ロシアの主教祈祷は人が多すぎて私には最後までぎゅうぎゅうの列に立って待ってるのは無理でした。とはいえ、幸いなことに日本に戻ると、主教祈祷が行われるニコライ堂ですら、普段の信者の数は聖堂の広さに対してそこまで多くないので、何度かダニイル府主教から、あの祈祷後の列に並んで祝福を頂いたことがあります。コロナ禍になる前の出来事だったので今はわかりませんが、ご高齢なのにエネルギッシュで、ひとりひとりに笑顔で祝福を授けられていました。ニコライ堂の信徒ではないので真新しい顔だと思われたのか、私はロシア風に祈祷では常にスカーフを被っているせいか、何故か毎回ロシア語で「ロシア人なの?」と話しかけられるのでした。個人的には、お気に入りの思い出です。

では、また次回お会いいたしましょう!

 

以下、原文です。

 

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*1:誦経とは、祈祷中に聖書などを音読すること。

*2:この「衆人に平安」という掛け声とともに、司祭が信者たちの方へ向かって十字を切ります。

*3:想像しづらいと思うので補足します。個別で祝福を受けるときは、両手のひらを重ねて神父の方へ軽く差し出します。すると、神父が祝福の十字を切ったその手を、信者の重ねた両手のひらに軽く乗せてくれます。その手に接吻をするのが、祝福を受ける際の流れです。