第1回「神さまについて」【神の法:第1部】

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早速、セラフィム・スボロツコイの『神の法』を訳していきたいと思います。

目次の紹介

この著書は5つの部から成っており、

第一部:前提概念

第二部:祈り

第三部:旧約・新約聖書のものがたり

第四部:信仰とキリスト者の人生について

第五部:正教会における教会祈祷

となっています。

第二部は祈祷文の紹介で、教会スラヴ語で書かれた祈りの文章を現代ロシア語に噛み砕いて解説しています。翻訳するとなると、日本正教会訳を用いて、古語の解説をすることになるので、古語に弱い私には少し荷が重い……。私一人では、正しく解説できる気がしないので(翻訳の範疇を超えている)、この一連の翻訳シリーズとは別途、どこかで紹介させてください!

第三部もまた、聖書物語は宗派関係なく共通して大事なものなのですが、正教の教えをメインに翻訳したいと思っているのと、ひたすらに量が膨大なので、後回しにします。

ということで、第一部、第四部、第五部の順に、毎回切りのいいところまで訳せたらと思います。

 

第1部の目次

比較的短い項で成り立っているので、一つの回で複数の項を翻訳することがあります。従って、第一部の翻訳は以下の通り行います。

 

第1回:「神さまについて〜三位一体と神の性質〜」

第2回:「祈りと罪」

第3回:「十字をきる〜十字の切り方やお辞儀の意味〜」

第4回:「いつどこでお祈りすればいいの?」

第5回:「聖堂と神父による祝福」

第6回:「イコンについて」

第7回:「天使や聖人について」

 

各回のタイトルは仮です。

 

続きから、第1回:「神さまについて〜三位一体と神の性質〜)」の翻訳をご覧になれます。

 

 

第1回:「神さまについて〜三位一体と神の性質〜」

※原書では、「神について」の前に「世界について」という項があります。世界は神の創造物であるという内容で、簡単に概要を述べると;神が創造した地上は、美しい自然で溢れており、ひとつひとつの関係は人智の及ばないほど複雑だが全てがうまく成り立っていること、神の創造した自然に人は生かされているということ、人はそれぞれの肌の色や外見にかかわらずひとりひとりが不滅の魂を持っているということ、神を愛し、神の法によって生きれば、私たちのために美しい地上はずっと続いていくこと。

神は「無」から、「言葉」によって世界を創造しました。神はご自身がお望みになることをなんでも叶えることができます。

神は最上の存在で、神と同位のものは、この地上にも天にもどこにもいないのです。

私たち人は、自らの知性によって神を完全に理解することはできません。私たちは、神の方から明かしてくれなければ、自分から神を知ることはできません。私たちが知っている神のことは、すでに神により明かされたことだけなのです。

神が初めて人を創造したとき、楽園でアダムとエヴァ(イヴ)*1の前に現れて、神が世界を創造したこと、ひとつの真なる神を信じること、そして神の意思を果たすよう伝えました。

こうした神の教えは、はじめは世代ごとに口承され、その後神の訓戒によりモイセィ(モーセ)や預言者たちが聖書として文字に認めました。

至聖三者(三位一体)について

神の子イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が地上に現れると、神について人が知るべきことをこれらの聖書に付け加えます。イイススが私たちに明かした最大の神秘は、神はひとつであり三つの顔を持つということ。一つ目の顔は神父かみちち)((((ここに脚注を書きます))))(父なる神)*2、二つ目が神子かみこ(神の子)、3つ目が聖神かみせいしん(精霊)です。

神が3人いるわけではなく、ひとつの神が三つの顔を持っていて、至聖三者しせいさんしゃ(三位一体)であり、同質で切り離せないものなのです。

三つあるうちのどの神の顔も同様の神性をもち、年上だとか、年下だとか、そういった違いはありません。神父かみちちが真の神であると同時に、神子も神聖神も真の神なのです。

違いがあるとしたら、神父かみちちはそれ自体が何からも生まれていないのに対し、神子と神聖神神父かみちちより生まれたという点です。*3

イイスス・ハリストスは、至聖三者という概念をもたらしたことで、神に拝するだけではなく、至聖三者のように神を愛するよう教えました。つまり、父、子、聖神のように、途切れることのない愛の中にあり、それぞれが一つの存在を成しているのです。神とは、最も完全無欠な愛です。

とはいえ、神が私たちに明かした至聖三者の概念は、私たちの理解を超え、認識し難いものです。

スラヴ人の師である聖キリルは至聖三者についてこのように説明しました。「空に輝く丸いもの(太陽)が見えるでしょう。そこから光が生まれ、熱が生じている。神父かみちちは太陽のように、始まりも終わりもない円で、そこから途切れることなく、太陽からの光のように神子が生じている。そして、太陽からの明るい光線と一緒に熱、神聖神が生じている。太陽の円も、光も、熱も、それぞれ別のもので、太陽が3つあるとは言わないでしょう。太陽は空に一つ。このように至聖三者の中には、三つの顔があり、同一で切り離せないものなのです。」

アウグスティヌスは「愛が見えるのなら、至聖三者も見えるだろう」と言っています。つまり、至聖三者はそもそも私たちの知性ではなく、心(愛)で理解するものだと言いたいのでしょう。

 

神の子イイスス・ハリストスの教えは、弟子たちによって「福音書」として聖書に書き加えられました。福音書(Евангелие/Gospel)はギリシャ語で至福の良い知らせという意味です。

一方で、全ての聖書物語を集めてひとつにした本を聖書(Bible)と呼びます。同様にギリシャ語で「本」という意味を持ちます。

 

神の性質

神は聖書を通して、神は体を持たず目に見えない霊だと明かしました。(ヨハネ福4:24)*4

つまり、神には体もなければ、私たちの体にあるような骨もありません。神は、私たちの目に見える世界のものでは成り立っていないので、私たちも神を見ることができないのです。

少し解説するために、私たちの地上から例を取ってみましょう。私たちには空気そのものは見えませんが、その動きだったり現象を感じることはできます。例えば、空気の動き(風)は大型船や難解な機械を動かす強い力を持っています。それに、空気なしでは、私たちは呼吸をすることができず、生きていくことができません。このように、私たちは神を見ることはできませんが、その動きや現象、叡智と力を世界の至る所で見ることができ、自分の中でさえ感じることができます。

一方で、目に見えない神は、私たちを愛するがため、ときどき目に見える姿で敬虔な人の前に現れることがありました。神の荘厳さや栄光で人々が死んでしまわないよう、神の似姿であったり、何かを別のものを通した姿で現れたといいます。

このように、神はモイセィに言われました。

また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト記33:20)

例えば、目が眩まないように、眩しく輝く太陽、つまり、神の創造物ですら見ることができない私たちに、その創造主の神など見れるはずがありません。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ福1:5 新共同訳)

光は暗闇に照り、暗闇はこれを覆わざりき。(ヨハネ福1:5 正教会訳)*5

そして、神は近寄り難い光の中に住んでいるのです。(テモテ1.6:16)

ここから、聖書に書かれている神の性質を挙げていきます。

永遠なる神(イザヤ書40:28)

私たちの世界では全てに始まりがあり、生まれ、そしていつかは終わり、死に、崩れ去っていくのです。この世界では全てが一時なもので、全てに始まりと終わりがあります。

また、天もなく、地もなく、そして時間すらなかったとき、存在していたのは神ただお一人でした。神には始まりもなく、終わりもないからです。神は常におり、そして常に存在し続ける、時間を超越した存在なのです。

神は常に存在する

永遠なのですから、常に存在することになります。

不変の神(ヤコブの手紙1:17)

この世界に、絶えず変わらないものなどありません。全てが絶え間なく変化していきます。成長し、老いて、やがては消え失せ、別のものに置き換わることもあります。

ただ神お一人だけが、恒常的で、変化もなく、成長したり老いることもなく、どんな場合もいつだって変わることはありません。過去にそうであった通り、現在も、未来も永遠にそのままであり続けます。神は常に同じなので、不変と言えます。

全能の神(創世記17:1、ルカ1:37)

人が何かをしたいと思うとき、いつだって材料が必要で、それなしでは何もできません。私たちは、絵の具でカンバスに美しい絵を描いたり、金属から複雑で便利な機械を作ることができますが、私たちの住む地球そのものや、私たちを照らし温める太陽などを作り上げることはできません。

ただ神お一人が、不可能なことは何もなく、できないことはないのです。神は、世界を作りたいとお考えになり、無からたったの一言で世界を創造したのです。

神はお望みになること全てを実現可能なので、全能の神を呼ばれます。

至る所に在る神(詩篇

神は常に、いつでも、どこでも存在しています。神のいない場所など、この世のどこにもないのです。どこへいようとも、神の目から逃れる人はいません。

神はどこにでもいるので、「至る所に在る」と言われるのです。

全知の神(ヨハネの手紙1.3:20、ヘブライ人への手紙4:13)

人は多くのことを習得し、知識を得ることができますが、全てを知るというのは誰一人として不可能です。それに、人は未来のことを知ったり、全てを聞き、全てを見るなんてこともできません。

ただ神お一人だけが、過去も、現在も、未来も全てをご存知です。神には、昼も夜もなく、常に全てを見て、聞いています。私たち一人一人のこと、私たちがすること、話すことの他に、思っていることや望んでいることもご存知です。

神は常に、全てに耳を傾け、全てを目にし、全てをご存知です。このため、神は全知の神と呼ばれるのです。

全(善)良の神(マタイ19:17)

人がいつでも善良かといえば、そうでもありません。嫌いな人がいることだってよくあります。

ただ神だけが私たちみんなを愛していて、人が誰かを愛するときとはまたさらに上の次元で私たちを愛しています。神は私たちに生きるため必要なものを全て与えてくださいます。天や地上にあるものすべてを神は人々への恵みと利益のために創造したのです。

例えば、とある主教はこのように教えています。

「我々に命を授けたのは誰でしょう?主です!我々は物事を判断し認識することのできる理性ある魂を主より与えられ、人を愛することができる心を与えられたのです……我々は、呼吸するための、それなしでは生きることのできない空気に包まれています。そして、空気と同じくらい我々に取って不可欠な水を与えられています。生きるために不可欠なあらゆる食物が手に入る地上に我々は育まれています。そして、光が我々を照らしており、それ無しでは我々は何も成すことができなかったでしょう。我々には火があり、極寒の日に自らを温めたり、必要な食料を料理することもできます。そう、これら全てが神から与えられたものなのです。父や母、兄弟や姉妹、友人たちは、なんと多くの喜びや助け、慰みを与えてくれることでしょう!しかし、主が望ましいと思わなければ、こういった人が我々に与えられることはなかったでしょう。」

神は常に私たちにあらゆる善や恵みをもたらすことができ、子煩悩な父親以上に私たちのことを気遣ってくれているのです。

こうして、神は全良の神、極めて慈悲深い(とても優しい)神を言われるのです。更にいうと、このために私たちは神を「天の父」と呼ぶのです。

義なる神(詩篇

人は偽りを口にしたり、不公平であることがよくあります。

神は非常に公正です。神は常に真実を守り、公平に人々を裁きます。理由なく義人を罰することはありませんし、逆に悪いことをした人には、反省し、悔いて自ら償いをしようとしないのならば、必ず罰を与えます。

このため、神は常に義であり、正しい審判といえます。

満ち足りた神(使徒言行録17:25)

人は常に何かを欲しがり、不満でいます。

ただ神お一人が、全てをお持ちで、ご自身のために欲するものはありません。むしろ逆で、私たちに皆に、全てをお与えです。

このため、満ち足りた神を言えます。

恵みの神(テモテ1. 6:15)

神は常に満たされているどころか、言葉にし難い喜びを心のうちに秘めています。完全なる至福、またはこの上ない幸せというべきでしょうか。私たちは、神のように、自分の内に人生で真の喜びを感じ難いものです。

 

神は、目に見えるものも見えないものも全てお作りになった神を創造主と呼びます。

また、支配者、主君、王と呼ぶこともあります。なぜなら、神は全能の意思により、創造されたもの全てを自らの力と権力で支え、全てを統治し、君臨し、支配してるからです。

また、神はすべての人を気遣い、配慮されているので、神慮するものとも呼ばれます。

 

ー翻訳終わりー

神の性質に関する太字のタイトルは、実はほとんどの語彙に「все(全ての)」という接頭辞がついています。「全能」は日本語の語彙と合うので問題ないのですが、そうでもない単語がたくさんあります。「全良(всеблагий)」はロシア語の意味と漢字を当てはめたものです。後半は諦めました。英訳を参考にしながら、今後翻訳をレベルアップできたらと思います。

また、聖書の参考箇所ですが、詩篇に関しては正教と一般的な聖書とでは、箇所が異なります。そのため、詩篇を参考にする場合は、調べるのに少し時間がかかるので、後で追加します。

お付き合いいただきありがとうございました。

 

翻訳箇所のリンクです

azbyka.ru

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*1:固有名詞は基本的に正教訳で表記し、括弧書きで一般的な呼称を補足します。

*2:神父は「しんぷ」とも読めるので、父なる神を意味する際はできる限りルビをふります。

*3:この点で、正教とカトリックでは解釈が異なります。カトリックでは、父と子から聖霊が発すると考えます。

*4:聖書の参照箇所です。本文への参照は、基本的に新共同訳を用います。

*5:ここの引用は、正教会訳のほうが分かりやすかったので、正教会訳を併記します。