第3回:「十字架について〜十字の切り方やお辞儀の意味〜」

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第3回目はセラフィム・スボロツコィ『神の法』の第1部より「十字架について〜十字の切り方やお辞儀の意味〜」について翻訳いたします。

第1部目次

セラフィム・スボロツコィ『神の法』の第1部の目次は以下の通りの予定です。

 

第1回:「神さまについて〜三位一体と神の性質〜」

第2回:「祈りと罪」

第3回:「十字をきる〜十字の切り方やお辞儀の意味〜」

第4回:「いつどこでお祈りすればいいの?」

第5回:「聖堂と神父による祝福」

第6回:「イコンについて」

第7回:「天使や聖人について」

 

第1回は下のリンクよりご覧になれます。

troitsa.hateblo.jp

 

十字架について

 

私たちはクリスチャン(キリスト者)です。我らが主イイスス・ハリストス、神の子が教えたとおりに神を信仰する者です。

さて、イイスス・ハリストスは正しい信仰のあり方を私たちに教えただけではありません。罪の蔓延る世界や永遠の死*1から私たちを救ってくださいました。

神の子、イイスス・ハリストスは、私たち罪人への愛がために天より降り、普通の人間のようにお過ごしになり、やがて私たちの罪を肩代わりし苦しみ、磔にされました。そして十字架の上で死ぬと、3日目に復活しました。

こうして罪なき神の子は、自らの十字架によって(つまり、世界中の人々の罪を背負い受難し、十字架により命を落としたことで)罪に打ち勝っただけではなく、死者の中から甦ったことで死そのものを克服したのです。こうして十字架は罪や死に対する勝利の武器となったのです。

3日目に復活し、死を滅したハリストスは、私たちをも永遠の死から救い出します。彼は、終末の日が来た時私たち全員を復活させ、神とともに生きる喜ばしい永遠の命を与えてくれるのです。

十字架とは武器であり、罪と死を打ち勝つハリストスの勝利の証です。

とある教師が、教え子たちに、いかにしてイイスス・ハリストスが自らの十字架によって世界の悪に打ち勝つことが出来たのか、わかりやすく解説するため、このような例を挙げました。

長きに渡りスイスは敵国オーストリアと対立し争っていました。ついに、二つに分かれていた敵軍をとある谷まで追い詰め、やがて最後の決戦の時が来ました。オーストリア軍の兵士たちは鎧を纏い、槍を前方に構えた形で隙間なく整列していました。そこへスイス兵たちは棍棒を振るいます。しかし、なかなか敵の厚い守りを打ち破ることができません。スイス兵たちは何度か勇猛果敢に敵前に飛び出して闘いましたが、どうしても反撃されてしまいます。所狭しに構えられた槍を壁を破ることが出来なかったのです。

そのとき、スイス兵のひとりであったアーノルト・ヴィンカルリートは自らを犠牲にし敵前に飛び込むと両の手で突き出された敵の槍を掴み、自らの胸に敵が槍を突き刺すよう仕向けたのです。こうして分厚い槍の隊列に隙間ができ、そこから味方のスイス兵たちがオーストリア軍の隊列に雪崩れ込むと、やがて決定的な勝利を掴み、敵を打ち破ることに成功したのです。

スイスの英雄ヴィンカルリートは自らの命を犠牲にし、自国民に勝利をもたらす可能性を残したのです。

このように、我らの主イイスス・ハリストスは、打ち負かすのが不可能にさえ思えた恐ろしい罪の槍を私たちの代わりに受け、自らの胸で死を受け入れ、十字架の上で死ぬと、罪や死に対する勝者として復活し、悪や死を克服し永遠への道、つまり永遠の命への道を開いたのです。

この後がどうなるかは、全て私たち次第です。罪と永遠の死で満ちた悪の世界から抜け出したいと思うのなら、ハリストスの開いた道を行くべきです。つまり、ハリストスを信じ、愛し、聖なる使命を遂行し、神の言葉に従うのです。(ハリストスと生きるということ)

十字の切り方

さて、こうした前提をもとに私たちは、イイスス・ハリストス、我らの救い主への信を表すため、十字架を首から下げます。そして、お祈りの時間には右手で十字を描くように、十字を切ります。

十字を切る時は、右手の親指、人差し指、中指の3本の指の先を綺麗に合わせ、残りの薬指と小指は手のひらにつけて曲げておきます。

合わさった3本の指は、神父、神子、神聖神の一体で別れることのない至聖三者(三位一体)への信仰を表し、残りの手のひらに収まった2本は、地上における神子の降臨と神でありながら

人となったこと、つまりイイススの神と人の二つの性質を表します。

十字を切るときは、合わさった3本の指を額(知性を清める)、腹(内なる感情を清める)につづき、右肩、左肩(肉体の力を清める)の順に動かします。

十字は悪を遠ざけ打ち勝ち、善を行うための大きな力を与えてくれます。ただし、十字は正しく急がず切りましょう。でなければ、十字を綺麗に描くことができず、ただ適当に右手を振り回すようなことになり、悪魔が喜ぶだけですから。ぞんざいに十字を書くことは神への不敬となり罪を犯すことになります。冒涜と言います。

では、どういったときに十字を描くのでしょう?お祈りの始め、その間、そして終わりに十字を切ります。他にも、聖とされるものへ近づく時、つまり、聖堂へ入る時、十字架やイコンに拝する時など。もちろん、自分の身に危険が迫っている時、悲しみのうちにある時、そして喜びにあるとき、生活の中で重要だと思うあらゆるシーンで十字を切ることもあります。

祈祷の最中を除き、十字を切る時は、心の中でこう唱えましょう。

「父と子と聖神の名による。アミン。」*2

至聖三者への信を表し、神の栄光のもとで生活し、努力していきたいという意思表示です。

「アミン」とは、「まさしく、真に、そのようになる」という意味です。

 

お辞儀について

神様に私たちの畏敬の念や敬意を示すため、祈祷の間は座らず起立していましょう。病人や歳を召している方のみ座ることを許されます。

神様の前で、自らの罪深さや不完全さを認識した私たちは、従順さの意味をこめて、お祈りの際お辞儀を伴わせることがあります。お辞儀にも種類があり、深々とした腰の高さのお辞儀、跪き額を地につける伏拝があります。

 

(翻訳終わり)

 

以下、原文リンクです。

azbyka.ru

azbyka.ru

 

翻訳者からの補足

どうして、処刑の道具がキリスト教のシンボルなの?と疑問に思っている方がいたとしたら、今回はそんな疑問に答える回だったと思います。

また、十字の切り方などの所作は、意外と教わることではないのか、それぞれが教会に通う中で自然に身につけるもので、なかなか具体的に教えてもらう機会がありません。(キリスト教圏で洗礼を受けた私の場合はまさにそうで、最初は見様見真似だった気がします。)そう言った意味で、このような本はとても助かります。

そして、教会における所作としての十字ですが、十字を描くべき場面というのはなんとなく決まっていますが(翻訳にあった通り)、だからといって迷いがあるのなら無理に十字を描かなくてもいいと思いますし、十字を描き忘れたからといって誰かに咎められるなんてこともありません。十字を書くという所作は、いつだって神様への思いに溢れた自分の心に従ってください。

お辞儀の件を補足しておくと、日本正教会では、聖堂の内に椅子を配置し、祈祷の間座ることを許している教会が多いです。基本的には起立して祈祷に臨みますが、祈祷の間は無理をせず、疲れてしまったら座ってもいいかと思います。一方でロシア正教会の聖堂には原則椅子はありません。教会入り口近く、壁に沿って配置されたベンチがあるだけで、祈祷中は稀にお年寄りや妊婦さんたちが使用している印象です。それでも、どんなに年老いた方でも、ロシアでは祈祷中は起立している姿が多く見受けられます。

また、お辞儀の深さについて。

正教の教会を訪れると、イコンや磔刑像の前で十字を描きながら深々くお辞儀をする独特の動きをした信者さんを見ることがあるかと思います。動作としては、十字を書き終えた右手の指先を、そのまま地面に触れるほど伸ばしお辞儀をします。これが、お辞儀について説明されている、ひとつめの腰の高さのお辞儀と呼ばれるものです。私は体がとても硬いので、指先が地面に届かずスムーズにできません……。大切なのは心。翻訳で、所作の紹介はしましたが、あまり縛られず、心に余裕を持って行うのが良いかと思います。

 

次回の記事は、お祈りの種類やいつ祈るべきなのかを紹介していきます。

 

よければ、オーナーの運営するショップも覗いていってくださると嬉しいです!

 

 

 

 

*1:ハリストスの復活が成し遂げられるまで、アダムとエヴァの原罪以降に亡くなった人たちの復活は約束されていませんでした。

*2:正教会での唱え方です。教会スラヴ語でも英語でも、どの言語でも構いません。